7/30  20年ぶりの駅

某大学の畜産学部があり以前は広い牧場が見えたのだが。。。。

 
σ(^_^;が採用試験に受かった年、中学入学の学齢児が丙午の年齢で中学への
入学児童数が激減し、全国規模で中学校教員の採用ゼロというところが
かなり出た年だった
ご多分に漏れず川崎市の体育も採用ゼロ、しかも一次試験数日後に救急車で
運ばれる急病になった私は、この川崎市しか二次の面接が受けられなかった
苦い思い出がある(当時は受験日がばらばらで数県の受験が可能だった)
採用ゼロの特別措置として、数年の県採用の提示がありむろん飛びついた
希望は中学校だったのだが、初任先は養護学校だった
大学で学んだ机上の教育論は現場ではほとんどといっていいくらい役に立たず
日々の授業や会議がすべて再学習の場になった
当時の同僚やいまだに交流のある卒業生たちには今でも感謝している
数年で県から市に出してもらうことができ,念願の中学校へ
しかし、市内でもトップクラスの荒れた中学で着任二日目に全国紙に載る
校内暴力が起こり、情けなくも半年もしないうちに胃に穴があく。。。
障害がありながらも懸命に生きている生徒たちと関わった後だけに、荒れる
中学生とのギャップに苦しんだ時期でもあった
それから数校の中学校を経て、部活に燃え、新設校で美術の教師までやったり、
障害児学級や分教室といった特殊な教育体制の経験をもさせてもらった
ある日ふと、養護学校へ帰りたくなった
そこに私の原点があるからかもしれない
そしていまの川崎南部養護でのσ(^_^;がいるわけである
今年、実に20年ぶりに研修でその養護学校の近くまで行ってきた
開校2年目で着任した当時から少し広くなって学校はそこにあった
しかし、利用していた駅は駅舎もきれいになり名前が変わり、一歩外に出た
とたん方向がわからなくなるほどだった
通勤途中にあった大学も学部名が変わり、すごい建物になっていた 
変わっていないのは学校付近の畑だけだった

生徒数が増え増築したらしい

畑とコンクリート工場は変わらず