2003 世界陸上

 
夏の残暑のさなか次に日本を沸かしたのは世界陸上
やはり本命はハンマー投げの室伏だったけど
マラソンの1・2フィニッシュやマッハ末続の銅といった
嬉しい誤算??もあって大いに熱くなったね
  [パリ 8月25日 ロイター] 陸上の世界選手権第3日は25日、当地郊外サンドニのフランス競技場で行われ、男子ハンマー投げ決勝で室伏広治が5投目に80メートル12を投げ、銅メダルを獲得した。
室伏は前回のエドモントン大会で銀メダルを獲得している。優勝は83メートル05を投げたイワン・チホン(ベラルーシ)、2位は80メートル36を投げたアドリアン・アヌシュ(ハンガリー)だった。(ロイター)[8月26日7時53分更新]

 記念撮影中、悔しそうな表情の室伏。後方では優勝したチホンが手を振りながら笑顔(撮影・宇治久裕)
 

 【サンドニ=牧野真治】やっぱり「鉄人」だった。男子ハンマー投げの室伏広治(28=ミズノ)が5投目に80メートル12をマークし、銅メダルを獲得した。前回エドモントン大会の銀メダルに続く2大会連続メダル獲得は日本人初。今季の充実ぶりから金メダルが期待されていた。優勝は逃したが、右ヒジの負傷、腰痛の試練を乗り越えての偉業は価値あるものだった。メダル獲得で陸上ではアテネ五輪代表「内定1号」となった。今回の経験も糧に来年こそ、金メダルを狙う。


 室伏の底力だった。傷だらけの鉄人が6投に死力を尽くした。「やるべきことはやりました」。試合直後、銅メダルという結果に戸惑っていたのはむしろ周囲だった。室伏には一点の曇りもなかった。金には届かなかったが、その「価値」は穏やかに話す顔が表していた。


 日本人初の2大会連続メダル。期待された金は手にできなかった。前回の銀から輝きは鈍くても晴れ晴れとしていた。「負傷後の周りの方のサポートに感謝したい。奮い立ちました。競技は自分だけでしているのではない、そう思えたことが収穫です」。投げるたびに、いつもは寡黙な父重信氏(57)がスタンド前列に駆け寄り、アドバイスを送った。慣れない土地で練習場を探し回ったスタッフもいた。メダルよりも大切なものを得た。


 15日に右ヒジを負傷。一時は出場をあきらめかけた。6月プラハ国際で84メートル86の世界歴代3位を記録した矢先のことに、勝負の神をうらんだ。練習を重ねることで感覚を研ぎ澄ませ、大会に臨むのがスタイル。直前のアクシデントに苦戦は免れなかった。だが極限の集中力で負傷を補った。決勝出場12選手中ファウルなしは2位アヌシュと2人。正確な技術と勝負強さで5投目には80メートルを越えた。万全なら…。だが、そのことは最後まで口にしなかった。


 父はアジア選手権5連覇のアジアの鉄人。母セラフィナさんはルーマニアの元やり投げ選手。それでも素質だけではここまで成長できない。千葉・成田高時代に下宿した恩師、故滝田詔生氏の幸子夫人は「食器を洗いながらもハンマー投げの振りをしていた」と当時を振り返る。今も変わらぬこの気持ちが傷だらけの室伏を突き動かした。


 雨のサークルに泣き、9位に終わったシドニー五輪の屈辱は忘れない。今回の苦悩も胸に刻み込んだ。メダル獲得で五輪代表の内定を引き寄せた。「アテネは万全で臨めるように頑張りたい」。五輪発祥の地で再び世界の頂点に挑む。(日刊スポーツ)
[8月27日9時24分更新]

[パリ 8月29日 ロイター] 陸上の世界選手権第7日は29日、当地郊外サンドニのフランス競技場で男子200メートル決勝を行い、末続慎吾が20秒38で銅メダルを獲得した。世界選手権短距離種目でのメダル獲得は、男女通じて日本人史上初の快挙。優勝は20秒30をマークしたジョン・カぺル、2位は20秒31でダービス・パットン(ともに米国)。米国勢が惨敗に終わった男子100メートルの雪辱を果たした。(ロイター)[8月30日9時53分更新]
<世界陸上>◇7日目◇29日◇パリ、サンドニ・フランス競技場
 【サンドニ=牧野真治】パリで歴史的快挙が達成された。男子200メートルの末続慎吾(23=ミズノ)が、銅メダルを獲得した。両足をそろえる独特のスタート姿勢を審判に注意されて出遅れたが、ラスト30メートルからの驚異的な粘りで20秒38でフィニッシュ。4位のキャンベル(英国)を100分の1秒、距離にして10センチかわして表彰台に立った。男子短距離種目では世界選手権、五輪を通じて日本人初のメダルで、アテネ五輪代表にも内定。次は100メートル9秒台、そして金メダルの夢を追う。


 パリの夜空に末続の絶叫が響き渡る。「ウォーーッ! 」。高野コーチの腕に飛び込み、雄たけびを上げた。涙が止まらない。ウイニングランのために用意した日の丸がクシャクシャになったが、興奮で気付かなかった。日本人には無理といわれた短距離種目(100、200、400メートル)、夢にまで見たメダルが今、手中にある。1912年(明45)ストックホルム五輪に三島弥彦が出場以来91年。日本人初の快挙だ。ほほえましい光景に国境を越えた、万雷の拍手が沸き起こった。
 栄光のゴールに横一線でなだれ込む。勝負はまれに見る混戦。メダルの行方は競技場大画面の速報掲示に委ねられた。1位カペル、2位パットン。だが、3位のところで画面が止まった。写真判定−。1分以上待たされた。「生きた心地がしませんでした。でも、観客の人がお前が3番だって言ってくれて、本当かよって…」。心臓が口から飛び出しそうだった。その時間が、末続には何十分、何時間にも感じられた。


 4位キャンベルに100分の1秒競り勝った。約10センチの差だった。天と地を分けたのは握り拳程度のわずかな距離。「1回じゃ信じられないんで、何回も(掲示を)見ました。手の震えが止まりません」。脳裏に浮かんだのは東海大キャンパスの坂道。雨の日も風の日も自転車に乗った高野コーチを追って走り込んだ。「頭がショートして意識がなくなるんです。(メダルは)血と涙の結晶ですね」。走るたびに吐いた。練習過多で胃腸を痛めたこともある。勝利の女神を振り向かせたのは、壮絶な練習だ。


 熊本・阿蘇郡で生まれ育った。イノシシのいる裏山を走り回り、祖父のつくるイノシシ鍋が大好物だった。実家の目の前には「伝説のちびっ子公園」がある。タッ、タッ、タッ…。午後8時すぎ、真っ暗な公園に足音が響き始める。中学生時代の末続だった。走るのが好きで好きでたまらなかった。学校から帰ると必ず2時間の走り込み。つらくないか?  両親の問いかけにも「やらされてるんじゃない。やりたくてやってるんだよ」と答えたという。好きだから耐えられる。つらさがあるから喜びも大きい。競技に取り組む姿勢は少年時代から一貫している。


 夢の20秒間。そのスタートに考えられないアクシデントもあった。両足をそろえる独特のスタイルを、審判に違反と見なされた。「1次予選から何も言われてないのに何でだろう? でも、ファイナルだからこんなこともあるかなって。影響はありありでしたけど」。ルールブック上も問題があるとは思えない。すい星のように現れた東洋のスプリンターには、海外メディアも強い関心を示していた。普通なら動揺してもおかしくない。だが、末続は世界舞台の決勝、それだけでも異常な空間で逆境を跳ね返した。本気度120%の走りは途中で左足をけいれんさせたが、屈しなかった。「3年前に父(陽一郎さん)を亡くしました。ショックを受けてましたけど、そこを乗り越えて強くなりました」と母和子さん。今回の遠征にはこっそり父の写真を忍ばせていた。レース後、末続は真っ先にこう言った。「父さん、母さん、ありがとう」。


 スタート反応は0秒176で8人中7番目だった。だが、最後は暴れ馬のような追い込みでブロンズに手を伸ばした。手に入れたのはそれだけではない。アテネ五輪代表に内定した。「伊東浩司さん、高野さんのおかげでファイナルまでの道はできていた。ここからは自分で切り開いて行きます」と末続。花の都パリに咲いた大輪の花は、興奮の中でもう前に進み始めていた。(日刊スポーツ)
[8月31日9時59分更新]

世界陸上・競り合う野口ら
女子マラソンで競り合うヌデレバ(左から2人目)と野口みずき(左端)。後方は千葉真子(右から2人目)、坂本直子(右端)(31日、パリ郊外サンドニ)
(AFP=時事)01時23分更新
世界陸上・優勝のヌデレバと野口ら日本選手
レース後、ポーズを取る優勝したヌデレバ(右から二人目)ら。左から坂本、野口。右端は千葉(31日、パリ郊外サンドニ)(AFP=時事)01時44分更新
 

Yahoo!ニュース

こちらから引用させていただいています

8/30の日記へ